<こたえ合わせ26>アディドメ村ソフトテニス部

※本記事は(財)日本ソフトテニス連盟発行「ソフトテニス1998年3月号」に寄稿した「アディドメ村軟式庭球部」及び当時の日記・記憶に基づいて編集したものです。

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「ズバッ」

1997年の乾季、アディドメ村の中心のバオバブの樹のある広場に、ソフトテニスのそれとは思えない重い打球音が響き渡る。それに合わせて、若者たちの野性味あふれる掛け声と歓声が何度も繰り返される。彼らが動くたびに立ち込める砂ぼこり。それが、アディドメ村ソフトテニス部のいつもの練習風景だった。

はじまり

30年前、私はアフリカのガーナにある、アディドメという地方の村にいた。現地語で「バオバブの樹の村」。平成8年度2次隊青年海外協力隊理数科教師。それが当時の私の肩書だった。じりじりと肌を焼く太陽、どこまでも続く赤土の道、そして大きくそびえ立つバオバブの樹。時間の流れが日本とは明らかに違っていた。言葉も文化も違う異国だったが、人間の根底にあるものはそれほど変わらないのかもしれない。赴任してすぐに、近所の子どもたちと仲良くなった。

晴れた日には、バオバブの樹の広場で泥だらけになりながら日本の「缶蹴り」に興じた。たった一箇所の缶をめぐって、言葉の通じない大人と子どもが本気で駆け引きをする。雨の日は狭い軒下に身を寄せ合い、彼らと一緒に『カエルの歌』を輪唱した。
  ①ゲロゲロゲロゲロ~
       ②ゲロゲロゲロゲロ~
            ③ゲロゲロゲロゲロ~
1小節ズレた奇妙なハーモニーを聞いていた近所の村人からは、当初「ミスターゲロゲロ」と呼ばれていた。拙い現地語、そして日本語が混ざり合うその空間。近所の子どもたちは、私という存在を通じて、まだ見ぬ外国を知ろうと必死になっているように思えた。その姿を見ていると、かつて日本の地方でいくつもの国際文通クラブに加入し、世界中のペンフレンドに手紙を書きまくっていた10代の自分自身を見ているような気がしてならなかった。

そんなある日のことだ。一通の封書が私の元に届いた。送り主は、大学体育会時代の恩師であるS先生だった。大学体育会の大先輩であり、日本ソフトテニス連盟の重鎮である。

「元気にやっているか」

便箋の文字は、大学の現役選手時代、コートで何度もかけていただいた励ましの声そのままの温かさを持っていた。しかし、そこに綴られていたのは、まったく思いがけない提案だった。

「アフリカの地でも、ソフトテニスをやってみないか?」

驚いた。現役選手を引退し、大学院生時代に女子部コーチとしての責をまっとうした時点で、私のソフトテニスは完結し、完全に離れたはずだったからだ。しかし、恩師の投げかけた問いが昔の記憶を呼び起こした。現役時代、ひとつの目標に向かって仲間と励まし合った濃密な記憶。女子部コーチとして、プレーヤーのときには決して味わえなかった喜びを知った劇的な体験。それらが、アディドメの缶蹴りで無邪気に笑う子どもたちの顔と重なり合っていったのだ。

「やらせてください」

私は、日本へ向けてそう返信した。それから数ヶ月が経った頃、はるばる海を渡って、村に一箱の段ボール箱が届いた。日本ソフトテニス連盟からの船便だった。頑丈な梱包の中にあったのは、中古ではあったが、どれも驚くほど綺麗に手入れされた4本のラケットだった。そして、1ダースの白いボール。それだけではなく、スペアのガットや、現地でのケアを見越したメンテナンス工具が整然と収められていた。箱の底から、恩師の無言の思いやりと、競技への実直な姿勢がずっしりと伝わってくるようだった。

私はその道具を抱え、すぐに子どもたちの待つバオバブの樹の広場へと向かった。
見たこともない道具を手にした私を囲むように、みなが何事かと集まってくる。言葉で説明するよりも、見せる方が早い。私はラケットを握り、真っ青なアフリカの空に向かって、垂直に思いきり白球を打ち上げた。

「ズバッ」

壁もネットも、遮るものが何もない剥き出しの広場。そこでは、ソフトテニス特有のあの軽快な「パコーン」という音は鳴らなかった。乾ききった空気のせいだったのだろうか、重く力強い「ズバッ」という音になって空間を引き裂いた。一瞬の静寂の後、子どもたちの間から「おおっ!」という地鳴りのような歓声が湧き上がった。

その瞬間、おそらくはガーナの歴史の中で初めてとなる、ソフトテニスの物語が産声をあげたのだ。

アディドメ村特別ルール

バオバブの樹の広場、その木陰にコートを作った。自分たちの歩幅で長さを測り、大まかな四角形を決めていく。そして足で地面を強くこすり、赤土に溝を刻んだ。それが「ベースライン」になり、「サイドライン」になった。ネットは、近くの林から切り出してきた不揃いな2本の木の枝をポスト代わりに突き刺し、その間にロープを渡しただけのものである。
そんな手作りのコートで白球を追いかけ始めると、すぐに公式のルールブックが役に立たないことに気がついた。環境が独自の知恵を要求したのだ。そうして自然発生的に生まれたのが、いくつかの「特別ルール」だった。

(1)小石拾い

バオバブの樹の広場の地面に転がっている大小さまざまな石は、イレギュラーバウンドの原因になるだけでなく、裸足やすり減ったサンダルで走り回る子どもたちにとって、捻挫や裂傷を引き起こす凶器でもあった。だから、練習前には全員でコートの石を拾う。
しかし、ただ拾うだけではつまらない。誰が一番大きな石を見つけるか、誰が最も多くの石を集められるか。いつしかそれは、練習前の賑やかなゲームのようになっていった。コートを整えるという行為そのものが、彼らにとっての「テニス」の一部になったのだ。

(2)バオバブルール

雨季の間、バオバブの枝葉は十分な木陰を作ってくれる一方で、高く上がったロビングを容赦なく叩き落とす障害物でもあった。当然、公式ルールでは打球が天井や障害物に当たれば即座に失点だ。しかし、ここでは違った。ボールがバオバブの枝に当たり、予測不能な角度で落ちてくる。それを対戦相手が必死に追いかけ、打ち返す。
「バオバブに当たってもプレー続行」
おそらく、世界で唯一のルールだったろう。

(3)道具の管理

アディドメ村には、ラケット4本とボールが1ダースしかない。ラケットが一本でも壊れてしまったら、ダブルスの試合ができなくなる。そのため、「ラケットを雑に扱ったら即退場」「練習の最後はボールの数が合うまで探し、ラケットの汚れはきちんと拭き取る」「観客や野次馬には道具を貸さない」と厳格に決めた。

(4)エヴェ語と日本語

ガーナの公用語は英語であるが、子どもたちは普段の生活では地域のローカル言語であるエヴェ語を話していた。私がエヴェ語に慣れたいと思う一方で、子どもたちも日本語に触れたいという要望があった。
そうしてソフトテニス部で交わされる言葉は、エヴェ語と日本語という奇妙な組み合わせとなった。コートにエヴェ語「エニョ!(いいぞ!)」や関西弁「ナニヤッテンネン!」などが飛び交う光景は、なんとも不思議で、活気に満ちていた。
こうやって、ルールとは限られた環境の中で目一杯楽しむために、自分たちで創り出すものなのだということを、私はこのとき教わっていた。

ある日の練習風景

月曜日から金曜日まで怒濤の30コマの理数科科目を教え、2年生のクラス担任としての業務を終えた翌日の土曜日。朝から昼にかけては、終わらなかった残務やたまった洗濯、ご近所さんの訪問対応であっという間に過ぎていく。
日中の強烈な日差しが少し和らいだころ、私はバオバブの樹の広場に向かう。赤道に近いこの地では、一年を通じて太陽がほぼ同じ軌道を通る。そのため、太陽を見ていればだいたいの時間が分かった。週末のソフトテニス部の活動は、だいたい15時くらいからだ。
広場に行くと、バオバブの樹の下で子どもたちが小石拾いをしている。先週もたくさん拾ったはずだが、サハラ砂漠から吹いてくる貿易風(ハマターン)のせいか、拾う小石は尽きない。
小石を拾った後は、準備運動だ。私がかつて指導していた、大阪大学ソフトテニス部女子部のメニューをそのまま流用する。日本の女子部のみんなは、自分たちがこだわって構成した準備運動がアフリカで行われているとは思いもしないだろう。
今回集まったのは15人。実際は30人くらいいるのだが、家の用事などもあり、全員が毎回参加できるわけではない。

「ランダ(乱打)!」という掛け声とともに、わーっと子どもたちが散らばっていく。当初はラケットの奪い合いだったが、いつしか自然と「小さい子どもから」という順序が決まっていった。
クロスではアボスとアネストが、恒例のものすごい乱打を繰り広げている。二人とも球威はあるが、アボスはバック、アネストは低い球が苦手だ。
「アネスト、ボボ(腰を落とせ)!」
なんて声をかけていると、逆クロスでは「俺のプレーを見ろ!」とばかりに、頑張り屋のシャイブが乱打している。ゴメンゴメン、忘れていませんよ、シャイブ君。ちびのシャイブは球の威力に押されまいとスイングが大きいが、不思議ときれいな放物線を描いて飛んでいく。それを打ち返すのは、キャプテンのアントニだ。
球拾いを含めて、みんな元気に走り回っている。「ウォドウォド(働け働け)」「カバカバ(急げ急げ)」と、元気な声が広場に響き渡る。
乱打が終わると、次は前衛練習。一番ちびのアヂュは、全身のばねを活かしたなかなかのフォームで、得意のスマッシュを放つ。負けん気が強く、連続してミスをすると泣きそうになるアヂュ。そのひたむきさがあればどんな逆境にも打ち勝てるぞ、と心の中で応援する。
続いてサービス練習。ここで特に成長したのがンナナだ。トスはまっすぐ上がらないが、全身のばねを使ってスマッシュのような力強いサーブを打つ。トップスピンがかかっているので、きれいにコートに収まっていく。ンナナをはじめここにいる誰一人、本当のソフトテニスを見たことがない、と言ったら日本の関係者は驚愕するであろう。
練習を始めて約1時間。シャイブが取れたてのマンゴーを持ってきてくれたので、皆で分けて食べる。休憩時間を利用してルールの復習をした後は、いよいよ練習試合。今日の組合せはンナナ・コフィ組対アボス・ヤウ組だ。
アボスがサーブを打ち、コフィが返す。ここで、日本ではあまり見られない光景が出現する。バドミントンのように、ノーバウンドでの打ち合いが始まるのだ。地面でバウンドさせてしまうと、赤土のせいでイレギュラーして失点してしまうからである。
ンナナのライン際へのナイスショットを、全身ばねのような筋肉を持つヤウが何とか飛びついて拾う。チャンスボールとなったその球を、コフィがスマッシュで仕留めて得点。アボスとヤウが何やら作戦を立てている。きっと、ンナナに自由に打たせないための策を考えているのだろう。
すっかりソフトテニスらしくなってきた、と私は心の中でほくそ笑む。

チェアテニス

さて、この日は月に一回ほどの「チェアテニス」の日でもあった。
ある日、「足の悪い兄弟がソフトテニスをしたいと言っている」と相談された。当時、まだガーナ国内で撲滅されていなかったポリオ、そして脚気やリウマチなどで、下肢が不自由な子どもたちが一定数いた。車椅子などのハード面、仕組みやサポートなどのソフト面が十分でなかったため、彼らは社会参加できていなかった。
小さめに描き直したコートのネット際に椅子を二つ置き、そこに脚の悪いプレーヤーに座ってもらう。移動ができないため、近くを通った球だけに反応して参加してもらう形だったが、これが思いのほか盛り上がった。
コートが小さいので、必然的に椅子のプレーヤーの近くにボールが集まる。また「バオバブルール」があるため、高いロブは打てない。いつしか彼らは、椅子の上のプレーヤーを「スマッシュマスター」と呼ぶようになった。役割の中で輝いていた彼ら、今でもその笑顔が忘れられない。

30年後のこたえ合わせ

部活動を通じて規律や礼節、いわゆるスポーツマンシップを学ぶべきだとは思う。ただ、日本とは事情が異なっていた。
子どもたちの環境はさまざまで、水汲みや畑の作業、きょうだいの面倒など、それぞれに家庭の事情を抱えている。「時間通りに集合する」というのは簡単そうで、決して簡単ではない。時計という情報にアクセスできること自体が贅沢だった時代である。「約束を守る」ということを、立場の弱い子どもたちに強いるのは酷でもあった。
偉そうなことは言えなかったが、その環境の中で育まれるべきスポーツマンシップのゴール、すなわち「ソフトテニスを通じて得られる精神性」とは何だったのか。それについては最後までよく分からなかったし、30年が経った今も、明確な「こたえ合わせ」はできていない。
ただ、参加していた子どもたちにとって、外国人と交流し、異国の競技のルールを覚えて仲間と励まし合い、競い合った経験が、きっと何らかの形で彼らの人生に良い影響を与えていたと信じたい。そして、道具を送ってくれた恩師・S先生の期待に少しでも応えることができていたなら——。
30年後の今、私は切にそう願っている。

 

〇死ぬまでにやる100リストNo.321「100の人生の答合わせをする」進捗26/100

<死ぬまでにやる100リスト>https://goo.gl/iPz2BH
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