1. アクラ観光
今回のガーナ再訪において「観光」はこの日だけ。
本来であれば、もう少し余裕をもった日程を組み、ガーナの観光地巡りをしても良かったのかもしれない。お金と時間があれば観光(旅行)に行ってみたいとは思うが、私はこの点に関しては積極的ではない。これは、「行った、食った、見た、知った」系のことはお金と時間だけの問題であり、自分の成長に直接的な寄与はしないと考える性格によるところが大きい。
とは言え、折角なので最終日はアクラ観光することにした。
日曜だろうが夜遅くだろうが、通常のサービスを受けられる日本は異常だ。各国政府は時間外や休日出勤時の賃金割増率を定め、通常時間外の業務行為を抑えようとしている。シドニーや北京に住んでいた(住んでいる)が基本的に日曜日の商業活動は半分くらいに抑えられている。
ガーナは更に進んでいる。日曜日の商業活動はほぼストップする。
協力隊時代の経験からある程度予想はしていたが、「ガーナで一番にぎわうマコラマーケットくらいは観光客相手に賑わっているだろう」、という期待は完全に裏切られた。マコラマーケットの広大な敷地内の販売エリアは、骨組みだけを残して商売人は誰も居ない。首都のど真ん中にできたゴーストタウンだ。
各商店が個人経営ということから考えると、これは賃金の割増制度による強制的なものでなく、文化として日曜日午前は働かないということが根付いているようだ。
何もないマーケットをうろついても仕方がないので、アクラで一番デカいショッピングモールであるマリーナモール(Marina Mall)へ行く。ちょっとだけ車が停まっているので、何店かオープンしていることを期待。
2.任国外旅行
協力隊時代の観光の話。
協力隊任期中に一度だけ「任国外旅行」という機会が与えられ、指定された近隣国に旅行をすることができた。
私は2週間をかけて、陸路でガーナからコートジボワール、マリ、ブルキナファソ、そしてガーナに帰国する旅程を立てた。事前に準備したものは現金とコートジボワールへのビザだけ。マリとブルキナファソへのビザはコートジボワールで手続きをした。
この三か国は全てフランス語圏。知っているフランス語は「メルシー」くらい、英語もほとんど通じず一人「電波少年」をしていた。
サハラ砂漠に近いエリアは過激派組織の巣窟のようなところだったり(当時は全く無知であった)、乗っていた列車が脱線してしまい何もないところで二日間立往生してしまったことを考えると、生きて帰れただけでラッキーと思わなければならない。

<協力隊時代・任国外旅行>コートジボアールの首都アビジャン。ガーナよりも発展していた印象。

<協力隊時代・任国外旅行>鉄道に乗って移動。これが悲劇の始まりであった。

<協力隊時代・任国外旅行>何もないところで脱線。水や食料もほとんどない。言葉もほとんど通じず、いつ復旧するかもわからず二日を過ごす。この時の心細さは今でも覚えている。

<協力隊時代・任国外旅行>脱線した箇所。電車を動かしながら線路に戻していた。

<協力隊時代・任国外旅行>ニジェール川。

<協力隊時代・任国外旅行>40度を超える気温と、砂ぼこり。体力がないと生き抜けない環境。

<協力隊時代・任国外旅行>ブルキナファソのガイド。

<協力隊時代・任国外旅行>マリのドゴン族の村のガイド。

<協力隊時代・任国外旅行>ドゴン族の集落。見ずらいが絶壁に住居がいくつもある。

<協力隊時代・任国外旅行>砂ぼこりで曇る空。PM2.5なのかどうかは知らない。

<協力隊時代・任国外旅行>マリとブルキナファソの街以外の場所は、ずっとこんな感じだったような気がする。

<協力隊時代・任国外旅行>布を染める作業のためのツール。

<協力隊時代・任国外旅行>バオバブの木。
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