今回のガーナ再訪するまでは、英文添削サービスへの思いはずっと心の片隅に引っかかっていた。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とは言うが忘れるまで17年もかかった。
ガーナ再訪をしているあいだ、ずっと当時を振り返っていた。そして今だから言える。
成功するか失敗するかは実はそれほど大した問題ではない。
17年かけた総括。やっと自分自身と折り合いをつけることができた。
1.やってみないと失敗すらしない
英文添削サービスは完全な「失敗」だった。しかし、この「失敗」は悪ではなかった。いろいろな経験をし、いろいろな考え方に接することができた。特許という天職も見つけた。
自分の身の丈をしたり顔で推し量り、何かをやる前から答えを出すのは姑息だ。何もアクションを起こさずに、「俺は失敗(又は成功)することは予想していた」というのは後出しジャンケンと何ら変わりない。スマホでGoogleを利用できる世界の中では、実践を伴わない知識は無価値だ。
ガーナを再訪する前の違和感の正体はこれだったのかもしれない。最近、後出しジャンケンばかりしていなかったか?
沢山の失敗しよう。
笑われたってよい、望むところだ。馬鹿にされても良い、既に馬鹿な失敗は沢山している。「開き直るな」「勘違いするな」と叱責されても良い、レベルの低いアドバイスは聞いたふりをしておくだけで良い。
そして将来、また別の再訪記を書こう。
2.グローバル化
国と国との関係でいえば先進国と途上国。しかし個人レベルで考えた場合、私はガーナ人と対等に勝負できるだろうか?
繰り返しになるが情報化社会の中において知識そのものは無価値である。更にビックデータ・人工知能というものが経験という価値を無力化させようとしている。つまり先進国の温室の中で過ごした私の数十年間の知識や経験は今の時代の強みにはならない。
そのような環境の中、私がガーナ人に勝てる要素は何か?日本人のメンタリティーに立脚した丁寧さと根性だけか?
一方で、ガーナ人にはハングリーさという圧倒的なアドバンテージがある。更に私の知っているガーナ人の集中力は非常に高い。世界共通言語の英語はガーナの公用語だ。
彼らと同じ土俵に上がっても私の勝算の低い。ではどうするか?
私が考える今のご時世に必要とされている能力は「度胸」「非言語コミュニケーション能力」。「体力」も大事だと最近思い始めた。だから私はキューブを回し、手品を披露する。100kmマラソンやトライアスロンもする。
日本のローカルルールの下で、日本人同士で争っているようでは志が低すぎる。もっと強大で無数のライバルが海の向こうにはいる。
日本人という看板を下ろしても、世界のツワモノの中で余人をもって代えがたい存在でありたい。
3. 環境・前提の変化
- 協力隊時代に砂利すら施設されていなかった土の道が、舗装道路になっていた。車で2時間必要だったところが15分になった。
- 協力隊時代には電話や電気がなかった地域にも携帯電話や移動体通信の電波が届いている。WhatsAppで世界中の人たちとリアルタイムのコミュニケーションがとれる。ビートルズを知らなかった子供たちが、ジャスティンビーバーやP!nkを聴いている。
- 協力隊時代の外国人の私を珍しがって駆け寄ってくれていた子供たち。今はアジア人なんてどこにだっている。
- 協力隊時代の日本の一人当たりのGDPはガーナの70倍あった。今は20倍だ。日本人というだけでアドバンテージがあったのは昔話だ。
たった17年の間における変化ある。環境・前提がどんどん変わっている。ガーナだけではなく日本も。今まで是としていた価値観や倫理観では対応できないことが増えてきている。
これから更に17年経ったときにどうなっているかわからない。
こんな時代だからこそ自分の立ち位置をきちんと定義し、ブレないように生きなければならない。その上で環境や前提の変化に柔軟に対応できるだけの心の余裕と前例を否定できる勇気が必要となってくる。
難しい時代になってきている。そして面白い時代になってきている。
4.若くして旅をせざるものは、老いてのち何を語るや
たった17年、されど一人の人間の一生の中の17年はいくらなんでも長すぎる。もうすっかり中年になってしまった。更に17年たったら、もう現役引退の年齢になっている。
ずっと思い出と戦っていたのではないか?Africa-Japan.comが気になるのであれば、もう少し早めに手を打てたのではないか?「引退してから考えよう」と逃げていたのではないか?無意識に人生を半分降りていたのではないか?
待たなくてもよい時間、しなくてもよい苦労、過剰なまでの気遣い、横並びの意識、空気を読む力、どれも必要だ。無駄とは思わない。
でも寿命という事実は受け入れなくてはならない。シラケている暇はない。
去年の1月に設けた死ぬまでにする100のことリストがなければガーナ再訪はなかったであろう。
「若くして旅をせざるものは、老いてのち何を語るや(出典不明)」
老いるまで、いや、死ぬまでに残された時間は、無駄にできるほど余っていない。
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